『あんぱんまん』が教えてくれたこと―神話的考察

アニメ「それいけ!アンパンマン」の原作、やなせたかしさんの絵本『あんぱんまん』の神話的考察。

(あとがき) あんぱんまんの原型は?

ここまでお付き合いいただきました皆様、

ありがとうございました。

 

お気づきの方も多いと思いますが、

このブログでは、あんぱんまんにイエス・キリスト

重ねるようにして、解釈しています。

 

私が『あんぱんまん』と出会ったのは大学3年生の時、

そして、勢い余って

「この原作を読んで、『あんぱんまん』の原型は

イエス・キリストに違いないと確信し、

証拠となる資料を方々探しましたが、

ついにそれは見つけられませんでした、残念です」

という内容で大学のレポートを提出したことがあります。

 

作者の故・やなせたかしさんは、

聖公会のクリスチャンだったと言われていますが、

本人の著作やインタビュー記事などで、

自身の信仰について公言されたことは無いようで、

実際のところはよくわかりません。

 

やなせさんが亡くなる2ヶ月ほど前、糸井重里さんとの対談の中で、

「死ぬ準備は全部してあるんですよ。

自分の位牌がもうできてるんです。

「清浄院殿画誉道嵩大居士」って戒名をつけてね、

仏壇に飾ってあるんです。」(元記事はこちら

とおっしゃっているので、少なくとも晩年は仏教に

親しんでいたことがうかがえます。

 

私のように、あんぱんまんにキリストの姿を重ねている

クリスチャンの方はたぶん多くて、

やなせさんはキリスト教の信仰を持っていたのだと

思いたくなるのはよくわかります。

 

何が言いたいかというと、

それぐらい、あんぱんまんとイエス・キリストの生き様が

似ているのです。

 

罪人の身代わりとなって十字架についたこと。

それは人の罪をあがない、神と人とをつなぐためであったこと。

処刑される日の前の晩、弟子たちの前でパンを裂いて、

「取って食べなさい、これは私のからだです」と語ったこと。

そして死んだけれども復活したこと。

 

十字架と復活はキリスト教信仰の土台であり、肝なのですが、

この復活というのは、なかなか理解しにくいというか、

腑に落ちてこない。

 

しかし、この物語では

「あんぱんまんが顔を与えて、それで終わるはずがない。

あんあんまんが復活してくれないと、すぐに人はまた飢えて

死んでしまう。なんの解決にもならない。」

ということが直観的にわかる。

 

復活しない方がおかしい、 

犠牲と復活が切り離せないものである、ということの、

ここまで見事な表現を私は他に知りません。

 

ヨハネ福音書に残されているイエスの教えの中に、

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。

だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」

という言葉があります。

そして、この説教を聞いた弟子たちの多くは、

なんとひどい言葉だ、と言い残してイエスのもとを去って行ったのでした。

 

『あんぱんまん』も発表当初、評論家や幼稚園の先生からは

酷評されたそうですから、そんなところもよく似ています。

 

それでも『あんぱんまん』は、子どもたちの心を掴み、

いつしか人気に火がついて、

こうして私の手元に届いたのでした。 

 

是非みなさんも機会があったら、

原作絵本『あんぱんまん』を手にとっていただきたいと思います。

 

「なんのためにうまれて、なにをしていきるのか」

 

ありがとうございました。

 

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(16) 「そのためにこそ、たたかわねば」―魂の飢え

私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、餓えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。

 

あとがき「あんぱんまんについて」より

やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年)

 

 

 あとがきの中で、作者のやなせさんは

当時の日本が抱えている問題を

「物価高、公害、餓え」と言っています。

物価高、公害に続いて、餓え、というのは少し不似合な感じもします。

 

この絵本が最初に発表されたのは1973年。

オイルショックによって物価が上がり、

また、水俣病イタイイタイ病などの公害病

大きな問題となっていた時期ですが、

それでも経済は大発展をとげ、

日本は世界第二位の経済大国になっていました。

 

だから、ここで言っている「餓え」は、

貧困による空腹というよりは、精神的なものとして解するべきでしょう。

お腹いっぱい食べられるようにはなったけど、

より一層強く感じられる心の貧しさや、満たされなさを

作者は「餓え」として表現したのです。

 

心の貧しさ、魂の飢えを、

私たちはどうすればいいのか。

これが『あんぱんまん』の投げかける問いです。

 

 

人は身体的な存在であると同時に、

人間同士の関係の中を生きる社会的な存在であり、

また、神あるいは絶対的他者との関係を生きる

宗教的な存在でもあります。

 

人は身体的、社会的、宗教的という三つの側面を持っていて、

それぞれにおいて、「飢え」があり、「死」があります。

身体的には生きているが、社会的に死んでいる、という状態もあるし、

生活も人間関係も充実しているが、何か心が満たされたない、

ということもあります。

 

三つ側面のうち、どこに重きを置くかは、人それぞれです。

「人と関わるのはまっぴらごめん、飯が食えればそれでいい」

という態度もあれば、

「神的存在と一体となるために、食ベ物も、人との関わりも断つ」

という、山に籠る修行僧みたいな生き方もあります。

 

しかし、あんぱんまんを見ていると、

この三つの側面というのは、

いずれかに重きを置くというのではなく、

重なっていることが大事なのだということがわかってきます。

 

顔を差し出すというあんぱんまんの行為は、

旅人や子どもの空腹を満たすと同時に、

そこに新しい人間関係を生み出し、

一方で、ぱんつくりのおじさんとの関係を深めます。

 

飢え死にしそうな人に、口だけ「友達になってください」と

言ったところで、聞いてくれないだろうし、

自分の力だけで善行を積もうとしても、

疲れ、擦り減ってしまうだけです。

 

三つの側面を重ねて見てみる。

身体的にも、社会的にも、宗教的にも、

しっかりとしたつながりがあり、

そこに命が流れている。

それがあんぱんまんが教えてくれた生き方です。

 

 

身体的、社会的、宗教的という三つの側面を重ねて生きる。

(15) 「きょうも どこかの そらを」―閉じない物語

あんぱんまんは

きょうも どこかの そらを

とんでいます

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やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

あんぱんまんは、

今日もどこかの空を飛んでいる――

 

この物語は閉じられることなく、

今日まで続いています。

 

 

あんぱんまんが飛ぶ理由、

それは飢えた人を探して救うため。

飢えた人を思う気持ちが、

今日もあんぱんまんを空へ飛ばすのです。

 

空を飛ぶ、というのは自由と解放のイメージです。

それは「祈り」にも似ています。

実は、他者を思いやることと、自由であることは

一つのことがらの両側面です。

自分のことを忘れて、誰かのことを心から想うとき、

不可能はなくなります。

 

 

ところで、お気づきでしょうか。

この絵本の大きな特徴なのですが、

主人公あんぱんまんの容姿が、始めと終わりでかなり異なっています。

登場したときは5等身ぐらいだったのが、

最後には3等身になっている。

雰囲気も、近寄り難い感じから、親しみやすい感じに変わっています。

この見た目の変化は、

読者とあんぱんまんの関係の変化を反映しているものです。

 

物語の始め、あんぱんまんは救済者として登場します。

このとき、「救済する者」と「救済される者」の間には隔たりがある。

しかし、その隔たりをあんぱんまんが

「ひょいっ」と乗り越えて、顔を差し出します。

差し出された側がその顔を食べるとき、

二人の間には関係が生まれ、ある意味での「同化」が始まります。

 

物語が進むにつれて、読む人はあんぱんまんと自分を重ねて見ることが

できるようになっていきます。

それが顕著になるのが、あんぱんまんが完全に顔を失う場面、

家に着いた子どもが、顔のないあんぱんまんを一生懸命心配して

見送るシーンです。

 

読む人に背中を向けている子ども

(すなわち、背中を向けている時点で「子ども=読者」なのですが)

の心は、完全にあんぱんまんに向けられている。

というより、心は、顔のないあんぱんまんと一緒になって

飛んで行っているのです。

 

そういうわけで、再生した後のあんぱんまんというのは、

最初のあんぱんまんと、助けられた子どもが

重なりあっていると言ってもいいでしょう。

 

 

あんぱんまんは「私の救済者」から「私のロールモデル」へ。

与えられた側のものが、今度は与える側へと変わっていく、

この連鎖、連続性が、世界に命を吹き込み続けるのです。

それが「今日も」という言葉の持つ意味です。

生きることは、繰り返すことです。

 

あんぱんまんの生きている今日と

私たちたちの生きている今日、

あんぱんまんの飛んでいる空と、

私たちの見上げる空は、つながっています。

 

この物語は私たちのために、

今日も開かれているのです。

 

 

物語は、今日も開かれている。

 

 

(14) 「すぐに また しゅっぱつです」―世界の救い方

「それじゃあ、また

おなかの すいた ひとを

たすけに いってきます」

あんぱんまんは、すぐに

また しゅっぱつです。

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やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

 新しい顔を作ってもらったあんぱんまんは、

休む間もなく、飛び立っていきました。

ぱんつくりのおじさんが、笑顔で見送っています。

 

あんぱんまんは英雄、ヒーローです。

だから、この物語は「英雄神話」と言っていいと思います。

 

英雄と言うと、

「悪い竜を退治して、この国に平和をもたらしました」

といった姿を想像しますが、

あんぱんまんの場合、国を救うどころか、

一度に助けられるのはせいぜい一人か二人。

 

一度に救えるのが一人だけなので、

おじさんに顔を作ってもらっては、

「それじゃあ、またいってきまーす」

みたいな感じで、

人を助けるのが、もはや日常になってしまっている。

 

でも、それがいいんですよね。

 

あんぱんまんが戦っているのは、

竜とか怪物に象徴されるような諸悪の根源ではなく、

「飢え」、すなわち人を生から遠ざける、

孤独とか、心の空白みたいなものなのです。

 

「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、

あんぱんまんは、それこそ自分の顔を食べさせることによって、

相手と人格的に結び付き、相手の心を満たし、

与える喜びとは何かを教えるのです。

 

この「飢え」は、一人ひとりと向き合うという仕方でしか、

満たせない。

一人ずつ救う、という仕方でしか、

あんぱんまんの世界は救われないのです。

だから、あんぱんまんは世界のヒーローではなく、

「私」のヒーローなのです。

 

そして重要なことは、

あんぱんまんの行為が日常であり、

一人ひとりに対するものであるからこそ、

あんぱんまんは救済者であると同時に、

私たちのロールモデルとなりえた、ということです。

 

私たちは、竜を倒したり、国を救うことはできない。

でも飢えた隣人にパンを差し出すことはできる。

世界はたぶん、そうやって救われていくのです。

 

 

一人ずつ救う、という仕方でしか、世界は救われない。

 

 

(13) 「まえよりも ふっくらと」―与え続けるために

「よおし、こんどは 

もっと おおきい ぱんに して

もっと おいしい あんこを 

いっぱい いれておいたよ。

さあ、できた。」

あんぱんまんは まえよりも

ふっくらとした かおに なりました。

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やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

ぱんつくりのおじさんは、焼きあがったパンを、

あんぱんまんの体の上に置きます。

そのときの、あんぱんまんの顔の嬉しそうなこと!

おじさんの表情も幸せに満ちています。

 

あんぱんまんは、なぜ与え続けられるのか。

全ての答えは、このあんぱんまんの笑顔が物語っています。

結局のところ、あんぱんまんにとって、

おじさんに新しい顔を作ってもらうことが、

この上ない喜びなのです。

 

おじさんが生地をこねているときに聞こえる歌。

こねられながら感じるおじさんの優しくて力強い手。

焼き上がった顔を両手で優しく肩にのせてもらうときの感じ。

そのときに見えるおじさんのくしゃくしゃの笑顔。

 

おじさんと過ごす、この時間、この瞬間こそが、

あんぱんまんが飛び続ける原動力になっています。

 

あんぱんまんには、飢えた人を救うという使命があります。

しかし、使命感だけで与え続けることはできません。

その使命感を支えているのは、おじさんから惜しみなく注がれる愛情です。

あんぱんまんは、新しい顔を受け取るという行為をとおして、

おじさんの愛情を確かめ、ふたりの関係を日々、新しくしているのです。

 

人は、与えるほどに豊かになっていきます。

しかし、その豊かさを真に意味深いものにするのは、

その土台にある、人格同士の結び付きなのです。

 

 

受け取ることを重ねることで、つながりは深く確かなものとなっていく。

 

 

(12) 「ぱんつくりの おじさん」―造物主

ぱんつくりの おじさんは、 

ぱんやきの めいじんです。

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

 

今回は、この物語の最後の登場人物、

後にジャムおじさんと呼ばれる、

ぱんつくりのおじさんの話です。

 

異世界=パン工場に住むこのおじさんは、

登場人物の中で唯一、「つくる」ことのできる存在です。

彼は、あんぱんまんの世界におけるクリエイター、「造物主」です。

あんぱんまんの命は、このおじさんの手によって

生み出されていたのでした。

 

ところで、このおじさんとあんぱんまん、

顔がそっくりなのです。

まるい顔に、まるい鼻に、まるいほっぺた。

あんぱんまんに、髪の毛と眉毛とひげをつけて、

帽子をかぶせてみたら、本当に同じ顔!

 

もちろん、おじさんはあんぱんまんの生みの親。

ふたりは親子みたいなものですから、

似ていて当然といえば当然です。

 しかし、ふたりの顔が同じということには、

もう少し深い、確かな意味があるように思うのです。

 

前の話で、顔はその人の人格、アイデンティティーを表す、

ということに触れました。

であるならば、顔が同じということは、

人格もまた同じということになります。

 

ぱんつくりのおじさんとあんぱんまんは、

親子であると同時に、一つの存在なのです。

 

おじさんは命を生み出し、あんぱんまんはそれを人間の世界に届けます。

ふるまいは異なりますが、二人の思いは同じです。

それは飢えた人にパンを届けること。

生命の流れの途絶えた人に、新しい命を流すことです。

 

あんぱんまんが与えた愛は、

ぱんつくりのおじさんが与えた愛なのです。

顔のないあんぱんまんを迎えるおじさんの笑顔が、

二人の思いが同じであることを力強く物語っています。

 

 

ぱんつくりのおじさんとあんぱんまんは、一つの存在。

 

 

(11) 「あたらしい かおを つくってあげるよ」 ―受け取るということ

ぱんつくりの おじさんは、

かおの ない あんぱんまんを みると、

にこにこしながら

「よしよし、また あたらしい かおを 

つくってあげるよ。」

と いいました 

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やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

神話において洞穴とかトンネルとかを抜けた先というのは

異世界と相場が決まっています。

さて、あんぱんまんの落ちた煙突の先はパン工場でした。

いよいよ、あんぱんまんの秘密が明らかにされます。

 

パン工場では、あんぱんまんによく似た顔のおじさんが

待っていました。

おじさんは嬉しそうに、あんぱんまんのために

あたらしい顔をつくることを伝えます。

顔のないあんぱんまんは、一言も口にせず、

ただ黙って調理台の上に座っています。

 

これまで全てを惜しみなく与えてきたあんぱんまんは、

ここでは、ただ受け取るだけの存在です。

与えるためには、まず受け取らなければなりません。

誰かを愛するためには、

まず自分が愛されていることを知らなければならないのです。

 

受け取るというのは、実は、とても難しいことです。

自分にはそれを生み出す力がない、ということを認めなければならないから。

そして、受け取ったものが究極的には自分のものではないことを、

認めなければならないからです。

 

お金、時間、才能、つながり。

自分の「所有」しているものを、

自分への「贈り物」として受け取りなおしてみる。

すると、それは自分を満たしてくれると同時に、

やがて誰かに「贈られていく物」と変わっていきます。

 

与えるためには、まず受け取らなければならない。