『あんぱんまん』が教えてくれたこと―神話的考察

アニメ「それいけ!アンパンマン」の原作、やなせたかしさんの絵本『あんぱんまん』の神話的考察。

(15) 「きょうも どこかの そらを」―閉じない物語

あんぱんまんは

きょうも どこかの そらを

とんでいます

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やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

あんぱんまんは、

今日もどこかの空を飛んでいる――

 

この物語は閉じられることなく、

今日まで続いています。

 

 

あんぱんまんが飛ぶ理由、

それは飢えた人を探して救うため。

飢えた人を思う気持ちが、

今日もあんぱんまんを空へ飛ばすのです。

 

空を飛ぶ、というのは自由と解放のイメージです。

それは「祈り」にも似ています。

実は、他者を思いやることと、自由であることは

一つのことがらの両側面です。

自分のことを忘れて、誰かのことを心から想うとき、

不可能はなくなります。

 

 

ところで、お気づきでしょうか。

この絵本の大きな特徴なのですが、

主人公あんぱんまんの容姿が、始めと終わりでかなり異なっています。

登場したときは5等身ぐらいだったのが、

最後には3等身になっている。

雰囲気も、近寄り難い感じから、親しみやすい感じに変わっています。

この見た目の変化は、

読者とあんぱんまんの関係の変化を反映しているものです。

 

物語の始め、あんぱんまんは救済者として登場します。

このとき、「救済する者」と「救済される者」の間には隔たりがある。

しかし、その隔たりをあんぱんまんが

「ひょいっ」と乗り越えて、顔を差し出します。

差し出された側がその顔を食べるとき、

二人の間には関係が生まれ、ある意味での「同化」が始まります。

 

物語が進むにつれて、読む人はあんぱんまんと自分を重ねて見ることが

できるようになっていきます。

それが顕著になるのが、あんぱんまんが完全に顔を失う場面、

家に着いた子どもが、顔のないあんぱんまんを一生懸命心配して

見送るシーンです。

 

読む人に背中を向けている子ども

(すなわち、背中を向けている時点で「子ども=読者」なのですが)

の心は、完全にあんぱんまんに向けられている。

というより、心は、顔のないあんぱんまんと一緒になって

飛んで行っているのです。

 

そういうわけで、再生した後のあんぱんまんというのは、

最初のあんぱんまんと、助けられた子どもが

重なりあっていると言ってもいいでしょう。

 

 

あんぱんまんは「私の救済者」から「私のロールモデル」へ。

与えられた側のものが、今度は与える側へと変わっていく、

この連鎖、連続性が、世界に命を吹き込み続けるのです。

それが「今日も」という言葉の持つ意味です。

生きることは、繰り返すことです。

 

あんぱんまんの生きている今日と

私たちたちの生きている今日、

あんぱんまんの飛んでいる空と、

私たちの見上げる空は、つながっています。

 

この物語は私たちのために、

今日も開かれているのです。

 

 

物語は、今日も開かれている。