『あんぱんまん』が教えてくれたこと―神話的考察

アニメ「それいけ!アンパンマン」の原作、やなせたかしさんの絵本『あんぱんまん』の神話的考察。

(8) 「ぜんぶ たべても いいんだよ」

おなかが すいたろう。

さあ、ぼくの かおを かじりなさい。

ぜんぶ たべても いいんだよ

 

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

 子どもを背中に乗せて飛び立つあんぱんまん。

そして、自分の顔を食べるように促します。

 

 

「人格(person)」という言葉は、

「顔(persona)」という言葉に由来すると言われるように、

顔というのは、その人の人格を象徴的に表すものです。

 

また、私たちは普通、まず顔を見て

「その人が誰であり、誰でないか」を判断します。

顔は、最も基本的なアイデンティティーの一つです。

 

だから、あんぱんまんが飢えた人に顔を差し出すとき、

代償として、あんぱんまんの人格そのものを差し出していると言えます。

 

「あんぱんまん」から「あんぱん」を取ってしまったら、

もうそれを「あんぱんまん」とは呼べません。

彼があんぱんまんであることを、誰もわからない。

 

顔を与えるということは、自分が自分であることを失う、ということ。

持っているお金や食べ物を分け与えるのとは、

全く次元の違う行為なのです。

 

 

人格やアイデンティティー、

あるいは自分らしさ、と言ってもいいかもしれませんが、

それはときに生命よりも重い意味を持ちます。

 

「醜態をさらすぐらいなら、死んだ方がまし」とか、

「たとえ死んでも、○○としての誇りは失いたくない」とかいう場合、

自分はこういう人間だ、という存在のあり方が、

生命よりも重要だと考えているわけです。

 

ところが、あんぱんまんは、

顔が半分という「醜態」もなんのその、

目の前の人を助けるためなら、自分が自分であることを捨てて、

相手の「食糧」へと自ら進んで成り下がる。

あんぱんまんは、本当に全てを与えてしまうのです。

 

 

今、顔が半分のあんぱんまんを「醜態」と言いましたが、

本当は、顔が半分のあんぱんまんを、美しいと思います。

それは、やっぱり彼が「あんぱん」だから。

 

鳥は空を飛ぶ姿が、魚は海を泳ぐ姿が一番美しいように、

あんぱんは食べられている姿が一番美しい。

 

すっかり食べられて「あんぱんまん」でなくなってしまう彼は、

すっかり食べられてこそ「あんぱんまん」なのです。

とても、不思議なことです。

 

 

あんぱんまんは、他者のために「あんぱんまんであること」を捨てる。