(8) 「ぜんぶ たべても いいんだよ」
おなかが すいたろう。
さあ、ぼくの かおを かじりなさい。
ぜんぶ たべても いいんだよ
子どもを背中に乗せて飛び立つあんぱんまん。
そして、自分の顔を食べるように促します。
「人格(person)」という言葉は、
「顔(persona)」という言葉に由来すると言われるように、
顔というのは、その人の人格を象徴的に表すものです。
また、私たちは普通、まず顔を見て
「その人が誰であり、誰でないか」を判断します。
顔は、最も基本的なアイデンティティーの一つです。
だから、あんぱんまんが飢えた人に顔を差し出すとき、
代償として、あんぱんまんの人格そのものを差し出していると言えます。
「あんぱんまん」から「あんぱん」を取ってしまったら、
もうそれを「あんぱんまん」とは呼べません。
彼があんぱんまんであることを、誰もわからない。
顔を与えるということは、自分が自分であることを失う、ということ。
持っているお金や食べ物を分け与えるのとは、
全く次元の違う行為なのです。
人格やアイデンティティー、
あるいは自分らしさ、と言ってもいいかもしれませんが、
それはときに生命よりも重い意味を持ちます。
「醜態をさらすぐらいなら、死んだ方がまし」とか、
「たとえ死んでも、○○としての誇りは失いたくない」とかいう場合、
自分はこういう人間だ、という存在のあり方が、
生命よりも重要だと考えているわけです。
ところが、あんぱんまんは、
顔が半分という「醜態」もなんのその、
目の前の人を助けるためなら、自分が自分であることを捨てて、
相手の「食糧」へと自ら進んで成り下がる。
あんぱんまんは、本当に全てを与えてしまうのです。
今、顔が半分のあんぱんまんを「醜態」と言いましたが、
本当は、顔が半分のあんぱんまんを、美しいと思います。
それは、やっぱり彼が「あんぱん」だから。
鳥は空を飛ぶ姿が、魚は海を泳ぐ姿が一番美しいように、
あんぱんは食べられている姿が一番美しい。
すっかり食べられて「あんぱんまん」でなくなってしまう彼は、
すっかり食べられてこそ「あんぱんまん」なのです。
とても、不思議なことです。
あんぱんまんは、他者のために「あんぱんまんであること」を捨てる。