『あんぱんまん』が教えてくれたこと―神話的考察

アニメ「それいけ!アンパンマン」の原作、やなせたかしさんの絵本『あんぱんまん』の神話的考察。

(10) 「あんぱんまんは しんだのでしょうか」

あんぱんまんは まちはずれの

おおきな えんとつの なかへ ついらくしました。

あぶない!

あんぱんまんは しんだのでしょうか

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

  

顔のすっかりなくなったあんぱんまんは、

その直後嵐に遭い、暗い煙突の中へ落ちていきます。

 

「死と再生」は多くの神話において重要なモチーフであり、

この『あんぱんまん』においても、同様です。

顔の喪失はまさしく「死」であり、

「煙突の中へ落ちる」というのは、

黄泉の世界へ下りていく様を思わせます。

 

 

この物語では、三つの死が描かれています。

 

一つ目は「飢え」。

旅人や子どもが最初に置かれていた状況です。

 

「飢え」とは、もちろんお腹が空いているということですが、

その象徴的な意味は「隔絶」です。

木の幹から切り離された枝が、やがて枯れてしまうように、

人間として本来持つべきつながりが切れてしまっていて、

生きるための力を得ることができなくなっている状態です。

 

そして、「食う‐食われる」という関係や、

一方的な「所有」という関係では、

この「飢え」は満たされないのでした。

 

 

二つ目は「過去の自分に対する死」。

あんぱんまんの顔を食べた子どもが体験した死です。

 

顔を食べるということは、あんぱんまんの人格が

自分の人格の一部になる、ということでした。

つまり、かつての自分は失われた、死んでしまった、

ということになります。

 

顔を食べるという強烈な体験をしてしまった以上、

もう、以前のように生きることはできません。

しかし、それはあんぱんまんとの新たな関係を生きる、

ということであり、

一つ目の死から抜け出した、ということもできます。

 

この二つ目の死は、この物語ではほのめかされているだけです。

しかし、「子どもの帰宅」を「帰還」、

あるいは「家」を天国の象徴ととらえれば、

確かに、この子どもはこの二つ目の死を受け入れ、

生まれ変わったのです。

 

「隔絶」という一つ目の死が、静的な「状態」であるのに対し、

この「過去の自分に対する死」というのは、

新しい生き方に目覚めるための動的な「プロセス」である、

とも理解できます。

 

 

そして、三つ目が「自己犠牲」です。

「死と再生」という縦軸に、

「自己犠牲」という横軸を重ね合わせると、

世界はどのようにひらけるのか。

それこそが『あんぱんまん』が語ろうとしていることです。

 

 

「過去の自分に対する死」は、新しく生きるためのプロセス。

 

 

(9) 「ぶじに いえまで」

あんぱんまんは こどもを ぶじに

いえまで おくりとどけました。

あんぱんまんの かおは、

すっかり たべられて なくなっていました

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

 

無事、家に帰り着いた子ども。

一方、あんぱんまんの顔は全て食べられ、

なくなってしまいました。

 

家に帰ることと、あんぱんまんの顔を食べること。

一見、関係のないように思える二つのことですが、

これらが同時に起こっていることからわかるように、

あんぱんまんの世界では、この二つはつながっています。

 

 

道に迷っている子どもは、空腹で、そして孤独でした。

しかし、家に帰れば、あたたかい食事があり、家族がいます。

そしてそれは一時的なものではなく、ずっと続くものです。

この家は「救い」の象徴であり、天国や永遠のイメージを含んでいます。

 

 

前の話で、顔は人格の象徴であること、

あんぱんまんにとって、顔を差し出すことは、

自分を失うことに等しい行為であることに触れました。

では、子どもにとって、顔を食べるということは、

どういう意味を持つのでしょうか。

 

それは、あんぱんまんの人格を自分の中に取り込む、

ということに他なりません。

 

あんぱんまんの顔を食べるということは、

単に空腹が満たされるという以上の意味がありました。

顔を食べるという体験をとおして、

二人の間に、人格の交流、つながりが生じたのです。

それは、子どもが「かおがなくても だいじょうぶなの」と

あんぱんまんの身を案じていることからもわかります。

 

顔を食べるということは、極めて強烈な体験です。

自分の身を捨てて他者を救うというあんぱんまんの生き方は、

このとき、この子どもの心に深く刻みつけられたはずです。

しばらくすれば、お腹はまた減るでしょう。

しかし、あんぱんまんはこの子どもの心の中で生き続けます。

自己犠牲によって生まれたつながりは、永遠の意味を持つのです。 

 

 

人格のつながりは、永遠の意味を持つ。

 

 

関連書籍・記事(リンク集)

《関連書籍》

やなせたかしあんぱんまん(キンダーおはなし絵本傑作選8)フレーベル館 1976年

吉田敦彦・松村一男『神話学とは何か有斐閣新書 1987年
 
《関連記事》
 
 
 
 

(8) 「ぜんぶ たべても いいんだよ」

おなかが すいたろう。

さあ、ぼくの かおを かじりなさい。

ぜんぶ たべても いいんだよ

 

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

 子どもを背中に乗せて飛び立つあんぱんまん。

そして、自分の顔を食べるように促します。

 

 

「人格(person)」という言葉は、

「顔(persona)」という言葉に由来すると言われるように、

顔というのは、その人の人格を象徴的に表すものです。

 

また、私たちは普通、まず顔を見て

「その人が誰であり、誰でないか」を判断します。

顔は、最も基本的なアイデンティティーの一つです。

 

だから、あんぱんまんが飢えた人に顔を差し出すとき、

代償として、あんぱんまんの人格そのものを差し出していると言えます。

 

「あんぱんまん」から「あんぱん」を取ってしまったら、

もうそれを「あんぱんまん」とは呼べません。

彼があんぱんまんであることを、誰もわからない。

 

顔を与えるということは、自分が自分であることを失う、ということ。

持っているお金や食べ物を分け与えるのとは、

全く次元の違う行為なのです。

 

 

人格やアイデンティティー、

あるいは自分らしさ、と言ってもいいかもしれませんが、

それはときに生命よりも重い意味を持ちます。

 

「醜態をさらすぐらいなら、死んだ方がまし」とか、

「たとえ死んでも、○○としての誇りは失いたくない」とかいう場合、

自分はこういう人間だ、という存在のあり方が、

生命よりも重要だと考えているわけです。

 

ところが、あんぱんまんは、

顔が半分という「醜態」もなんのその、

目の前の人を助けるためなら、自分が自分であることを捨てて、

相手の「食糧」へと自ら進んで成り下がる。

あんぱんまんは、本当に全てを与えてしまうのです。

 

 

今、顔が半分のあんぱんまんを「醜態」と言いましたが、

本当は、顔が半分のあんぱんまんを、美しいと思います。

それは、やっぱり彼が「あんぱん」だから。

 

鳥は空を飛ぶ姿が、魚は海を泳ぐ姿が一番美しいように、

あんぱんは食べられている姿が一番美しい。

 

すっかり食べられて「あんぱんまん」でなくなってしまう彼は、

すっかり食べられてこそ「あんぱんまん」なのです。

とても、不思議なことです。

 

 

あんぱんまんは、他者のために「あんぱんまんであること」を捨てる。

 

 

 

(7) 「ないているのは きみだったのか」

ないているのは きみだったのか、

もう だいじょうぶだ。

あんしんしなさい

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

だんだんあたりが暗くなってきて、

とうとう泣きだしてしまった子ども。

でも、その泣き声は、確かにあんぱんまんに届いていました。

 

泣くということは、子どもであるということ。

子どもであるとは、弱いということです。

 

泣くことは、自分が無力であることの表明です。

産まれたばかりの赤ちゃんは、本当に泣くことしかできません。

自分の生存を、完全に他人に依存しています。

それが成長し、自立するにつれ、泣くことが少なくなっていきます。

 

大人はあまり泣きません。

でも、大人だって本当は子どもなのです。

自分の力ではどうしようもないことが、ある。

何でも自分で解決できる、そんなのはたぶん嘘なのです。

 

自分の弱さをさらけだすのは、とても難しいことです。

しかし、そのとき、あんぱんまんはかならずやってきます。

子どもであるとは、弱いということですが、

自分の弱さをさらけだせる人は、本当は強いのです。

 

あんぱんまんも、弱いのです。

弱さをさらけだすことは、与える生き方を始める最初の一歩です。

 

 

自分の弱さをさらけだせる人は、強い。

 

 

(6) 「きれいな ちょうを おいかけているうちに」

きれいな ちょうを

おいかけているうちに

みちに まよってしまったのです。

 

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

この物語で、私たちの存在を映すもう一人の登場人物が

まいごになった子どもです。

 

旅人と同じように、この子どもも一人ぼっちでお腹をすかせています。

そして、ここでは子どもが道に迷ってしまった理由が語られています。

彼は、蝶を追いかけているうちに道に迷ってしまったのでした。

 

蝶は美しいものの象徴。

そして、子どもの手には網が握られています。

子どもはただ蝶を追いかけていただけではなく、

捕まえて自分のものにしようとしていたようです。

この網は、所有欲を示しています。

 

捕えられた蝶はもう自由に飛ぶことはできません。

蝶を所有するということは、蝶を殺すということなのです。

 

 人は生きるために、他の命を食べなければならないという

「おそろしさ」を抱えていますが、

自分の欲のためだけに、他の命を奪ってしまうという、

別の「おそろしさ」を抱えています。

さらに、純真無垢な子どもにその「おそろしさ」が表れていることに、

所有欲の根深さがあります。

 

そして、蝶を追いかけていた子どもが道を失ったように、

所有することを求めていると、自分を失ってしまうのです。

 

与えるあんぱんまんと、所有する子ども。

ふたつの生き方が、ここにさりげなく対比されています。

  

所有を求めていると、自分を失う。

 

 

(5) 「すこし げんきが ないようです」

ゆうぐれの そらを 

あんぱんまんが とんでいます。

でも すこし げんきが ないようです

 

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 やなせたかし『あんぱんまん』フレーベル館 1976年

 

 旅人の前では終始笑顔だったあんぱんまん。

しかし、この場面では、あんぱんまんに元気がありません。

 

それは、そうです。

だって顔が半分になっているんですから。

 

あんぱんまんは、

顔があんぱんで、空も飛んでみせますが、

それでも生身の人間なのです。

 

与えることには痛みが伴います。

それはあんぱんまんも例外ではありません。

自分が傷ついて、命を削って与えるからこそ、

相手を生かす力になるのです。

 

 与えることには痛みが伴う。